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つかさの自由帳

140文字では伝えきれないこと:自由について本気出して考えてみた


政治を五分で理解するための教養

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要約:政治をざっくり理解する上ではリベラルとコミュニタリアンとリバタリアンが持つ価値観を理解していれば十分で、その中でもリバタリアンって最高じゃね?って話です。

裏テーマは恋愛工学批判に対する皮肉と自己紹介です。 

1.はじめに

政治について語るということは、そんなに難しいことじゃない。たまに政治について語る教養がないと嘆く人がいるけれど、結局は「世の中に3種類の人間がいる」ということだけを頭にいれておけば大抵の政治は語ることができる。今日はその3つ、リベラル、コミュニタリアン、リバタリアンについて紹介したい。

この3つはどういった価値観に一番の重きを置くかということで主張が異なる。ざっくり言うと、リベラルは「平等」、コミュニタリアンは「共同体の正義」、リバタリアンは「自由」だ。ちなみに僕は自分のことをリバタリアンだと思っているのでこの記事はリバタリアン寄りの内容となることをご承知置きいただきたい。

政党で考えるとリベラルは社民、共産、民進、コミュニタリアンは自民、リバタリアンは維新となる。公明党は「宗教」というまったく異次元の価値観があるので、ここでは触れない。もちろん完全に割り切れるものではなくあくまで「傾向がある」といった意味で考えて欲しい。

2.リベラル

さて「平等」を至上価値とするリベラルには香ばしいというかちょっと胡散臭い政党が揃っている。それもそのはずで現代社会の基本システムである資本主義と相容れない考え方が「平等」だからだ。

勘違いして欲しくないのは、僕だって「平等」は素晴らしいと思っている。だけどそれはあくまでも身分や出自、人種や性別に関係なく等しくチャレンジする機会が与えられているという「機会の平等」に限った話で、様々な過程を無視して「結果の平等」を求める社会はグロテスクなディストピアでしかない。

この集団の代表的な政策は「大企業や金持ちに重税を課し、弱者に分配する」といったものだが、それが上手く行かないのはソ連が証明してくれた。

また彼らは「平等」を国家を超えた枠組みで適用しようとするので、時に自国の利益と相反する政策を提言しているようにも見える。例えば慰安婦問題なんかを大きく取り上げるのもこの集団だし、ルーピーとアメリカに揶揄されるほど国政に混乱をもたらした鳩山元首相もここに属する。彼は「平等」の精神を世界中で振りまいたために日本国民からは売国奴として罵られることとなった。

またこれは余談だけど、彼は宇宙人という自らに付けられたあだ名を気に入っていたフシがある。なぜなら

『宇宙人の自分だからこそ自国の利益に囚われず地球規模の問題に対処できる。』

という考えがあったからだ。それはそれで立派な志かもしれないが、一国の首相には恐ろしく不向きだった。

3.コミュニタリアン

次に「共同体の正義」を重んじるコミュニタリアン、いわゆる保守と呼ばれる人たちを見てみよう。「共同体の正義」というのは一見わかりづらいが、つまりは長い歴史の中で育まれてきた伝統を大事にしようとする一団だ。これは政党で言えば最もポピュラーな自民党ということになり、いわゆる「普通の人」とも言える。「普通の人」は伝統を重んじ、仲間を大切にする。最近の言葉で言えば「ワンピース的価値観」や「マイルドヤンキー」なんてものがあてはまるかもしれない。これだってもちろん「平等」と同様に素晴らしい考え方だが、やっぱり違和感を感じないだろうか。というのも彼らの目には仲間以外の人々が(あまり)写っていないからだ。

「共同体の正義」を突き詰めれば、ともすれば偏狭なナショナリズムを肯定してしまう可能性がある。かつてのファシズムがそうだったように、あるいは今のアメリカを見ても分かるように徹底したコミュニタリアンは他民族を排斥するムーブメントを醸成しかねない。また「国家のために」という価値観は戦争中に特攻隊という悲劇を生んだ。

4.リベラルとコミュニタリアンに関して特に問題だと思うこと

最後に「自由」を至上価値とするリバタリアンを紹介したいと思うが、その前にリベラルとコミュニタリアンについて僕が最も問題だと感じていることを述べておきたい。それはこれらのイデオロギーが「妄信的で絶対的なもの」となりうる点だ。

「平等」や「正義」は確かに素晴らしい価値観だ。しかしそれ故に絶対的なものとなりやすい。そして「素晴らしい」価値観を持つ人々は他人にもそれを強制しがちだ。ネット上で攻撃的なのもリベラル(exフェミニスト)やコミュニタリアン(exネトウヨ)ではないだろうか。「平等」を叫ぶ人は周りの人も「平等」でなければならないと思っているし、「共同体の正義」を信奉する人はやはり周りにもその「正義」を押し付けようとする。寛容を叫ぶ人ほど寛容ではないという例のアレだ。心当たりはないだろうか。

一億歩譲って彼らが純粋な気持ちから「平等」や「正義」を押し付けようとすることは肯定はしないが理解はできる。でも時に彼らは「嫉妬」や「憎悪」という個人的な負の感情を「平等」や「正義」という仮面で取り繕いながら言葉の棍棒でぶん殴ってくる。僕はそういう人たちを本当に醜いと思う。

「おいおいちょっと待て、じゃあリバタリアンはどうなの?」

そんな反論もあるだろう。だが考えてみて欲しい。「自由」という価値観が絶対的なものだとして、それを人に押し付けることは果たして可能だろうか?リバタリアンからすればリベラルだろうがコミュニタリアンだろうが、彼ら自身のコミュニティ内で、それを主張するのは「自由」だと思っているし干渉する気もない。唯一言える批判的な言葉は「もう好きにすればいいじゃん」ということぐらいで、そこに強制性はない。リバタリアンが唯一声高に「自由」を叫ぶのは自らの「自由」が侵害された時のみだ。だから他のイデオロギーに対して攻撃的な防御に出ることはあっても率先して噛み付くことはない。こう考えると人に押し付けることのできない価値観である「自由」ってすごい。

5.リバタリアン

さてほとんどリバタリアンについても解説してしまったが、最後にもう一度おさらいをしておこう。リバタリアンを政党に置き換えると、強いて言えばだが維新の会ということになる。何故かと言うと、維新の会はほとんど唯一と言っていいほど小さな政府を志向しているからだ。

小さな政府を志向するということは政府の役割を限定し、個人への干渉をできる限り小さくする、つまりは「自由」を最大限尊重するということに他ならない。具体的な政策としては種々の規制緩和や減税などが挙げられる。リバタリアンは国家に対しても「ほっといてくれ」というスタンスだし、重税を課されることは自らの「自由」を奪われることだと捉える。ドストエフスキーが言うように貨幣とは鋳造された「自由」であるからだ。

とは言えこれだけではフェアではないのでリバタリアンの欠点についても述べておこう。

「自由」を突き詰めた社会はホッブズが指摘したように「万人の万人に対する闘争状態」つまり無政府状態に近いところに至る。それはやはり弱肉強食の世界であり、力がなくお金を稼ぐことのできない弱者にとっては生き辛い世界だ。

ここで弱者救済に対するリバタリアン的な回答はベーシック・インカムということになるのだけれど、これに言及するためにはもう一本記事が必要なので割愛する。

念のためもう一度言っておくけれど、ここで言ったのはあくまでざっくりとした分類で、自民党や民進党の中にもリバタリアン寄りな人たちは存在するし、極端なリベラルやコミュニタリアン、そしてリバタリアンというのも中々いないだろう。かく言う僕もコミュニタリアン寄りのリバタリアンだ。

6.最後に

さてつらつらと書いてきたわけだけど、ここまで理解できればおそらくはそんじょそこらの政治通よりもよっぽど政治について語ることができるようになっているはずだ。少なくともリバタリアニズムという思想の上に立脚すれば議論で言い負かされることはない。決め台詞は「好きにすればいいじゃん、でもこっちに迷惑をかけるなよ」だ。覚えておこう。

しかしこう考えてみると「自由」「平等」「友愛」を同時に掲げるフランスの国旗って、楚の国の商人も裸足で逃げ出すレベルの矛盾を抱えていると思うよ。

参考図書:

マイケル・サンデル著:これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

橘玲著:(日本人)