読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

つかさの自由帳

140文字では伝えきれないこと:自由について本気出して考えてみた


僕の恋愛奮闘記~だって童貞だったから~

金融日記262号を読んでいると、ふとこんな文字が目に飛び込んできました。

 
僕にとって大切な「初めて」をなんで風俗ごときで捨てなきゃいけないんだ
【中略】
絶対に素人女で童貞を捨ててやる!
 
僕はこれを読んだ時、激しい動悸を覚え、めまいに襲われ、気づけばサイバイマンの自爆攻撃を受けたヤムチャのように地面に這いつくばっていました。
 

f:id:tsukasa-h:20170420134432j:plain

 
というのも僕の「初めて」には今まで誰にも言うことができなかったほろ苦い思い出があるからです。今日はそんな僕のちょっぴり切ない青春時代の話をしたいと思います。ちなみに甘酸っぱさは全然ありません。ただただ苦いだけのお話です。
 
 
大学1年生の夏休み、僕は僕を含めた友人たち6人でタイ旅行へ出かけました。具体的な行き先は特に決めていませんでしたが、バックパッカーの聖地と言われるカオサン通りに拠点を構え、タイ料理を楽しみ、ビーチで泳ぎ、そして観光地へと足を運びました。それはそれはとても楽しい思い出で社会人となった今でも美しい思い出として鮮明に記憶に残っています。
 
しかしそんな楽しい旅行にもひとつ問題がありました。
 
 
そう夜の遊び方です。
 
 
僕たちのグループの童貞率は50%、つまり僕を含めた3人がピッカピカの童貞でした。金融日記の投稿にあった通り「初めては絶対に好きな人」という鉄の不文律を持つ僕たち童貞は、まさかタイの風俗で「それ」を卒業することなんて考えてもいません。
 
もちろん非童貞たちが風俗に行くのを止めるほど野暮ではありませんでしたが、ここで一悶着が起きます。
 
 
 
 
 
「そんなもん(=童貞)大事にとっておいても仕方ないだろ、ここで3人とも卒業しちまえよ」 
 
 
 
そうのたまったのは既に童貞を卒業していた相沢君でした。そして他の非童貞たちもその発言に便乗し囃し立ててきます。
 
なんて無礼な奴らだ。と僕たち(童貞)が憤りを覚えたのは当然でしょう。これは辛い童貞時代を過ごしてきた方々には理解いただけると思うのですが、非童貞が童貞に風俗を勧めることはすなわち戦争を意味します。そこにはただならぬ空気が漂い始めていました。
 

f:id:tsukasa-h:20170420134527j:plain

f:id:tsukasa-h:20170420134532j:plain

 
ところで非童貞組には田町君というのはちょっと頭の弱いみんなのいじられキャラがいました。外見もベ◯ースターラーメンのパッケージのようなヤツで、とろくさいけど愛嬌のある憎めない友人でした。当然、彼が童貞を卒業するのは仲間内で最後だろうと目されていたのですが、驚くことに彼は3番目に童貞を卒業してしまったのです。
 
想像してみて下さい。普段からちょっと小馬鹿にしていた友人が、自分よりも早く童貞を卒業することの恐怖を。僕たちの仲は依然として良好なままでしたが、そこには絶妙なパワーバランスが生まれていました。
 
※田町くんのイメージ画像

f:id:tsukasa-h:20170420144217j:plain

 
 
 
話を戻します。風俗に行く行かない論争は膠着状態に陥っていました。まさかここで童貞を失うわけにはいかない僕たち(童貞)、そんなのはお構いなしの非童貞、この膠着状態を打ち破ったのはまさかのベビースター田町君でした。
 
彼はおもむろに立ち上がると僕たちを見下ろしこう言ったのです。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「童貞なのが悪いんだろうが!」
 f:id:tsukasa-h:20170420141715j:plain

 

 
 
僕たち(童貞)は耳を疑いました。
 
 
「童貞が悪い」
 
 
社会人となった今でも、こんな差別的な発言は聞いたことがありません。僕たちだって好きで童貞をやっているわけじゃありません。運命が外見がいや女が悪いんや。
 
ましてや普段は上から目線で小馬鹿にしていた田町君から言われたのです。その時の衝撃はいかばかりか、怒るでもなく言い返すでもなく、ただただ狼狽えるのみでした。
 
「ご、ごめん」
 
気づけば僕は謝っていました。
 
もう後には引けません。僕たちはとりあえず現場を見るだけならという条件で風俗街へとタクシーを走らせました。頭の中はまさかここで童貞を捨てるわけないよなという思いと、初めて触れる生のエロに対する期待と不安で、ぐちゃぐちゃになっていました。
 
さて風俗街へ降り立つといきなり試練が訪れます。なんと風俗嬢と思しき背の高い美女が僕の手を握ってくるではありませんか。
 
当時英語ができず、童貞だった僕は完全にテンパりました。ふと友人たちに目を向けるとにやにやしながら、遠巻きに冷やかしてきます。そして冷やかしてきたと思ったらあっという間に風俗街へと消えていきました。そう、僕は見捨てられたのです。あれだけ童貞卒業を煽られたのに。 
 
 
さて、そんなことはお構いなしに、隣の美女は耳元で囁きます。
 
「Go with me tonight」(今夜は私と一緒に過ごしましょう。)
 
当然のように僕は返します。
 
「I, I, I am a cherry boy」(ぼ、ぼ、僕は童貞です。)
 
冠詞のaは必要だったっけ?今、童貞は一人だしな、とか文法の正確さにこだわりながら、僕は自分が童貞であることを告げました。
 
こう言えばさすがのお姉さんも童貞の純潔を慮って、手を引いてくれると思ったのです。しかし返ってきた言葉は僕の予想を裏切るものでした。
 
「I will teach you」(教えてあげるわ。)
 
 
 
 
 
 
再びここで話が脱線して恐縮ですが、僕は飛行機恐怖症です。初めて乗る航空会社は必ず安全度ランキングを確認しますし、精神安定剤も持っています。今も年に数十回は仕事で飛行機に乗っていますし、飛行機が落ちることなんて数百年乗り続けて一度あるかないかということも理解しています。しかし怖いものは怖いのです。
 
なんでこんな話をしたかというと、このタイ旅行の最中もずっと僕の頭には死の恐怖がつきまとっていたためです。つまり日本に帰る飛行機にもしものことがあった場合、僕は童貞のまま生涯を終えることになる。それだけは避けたいという思いがありました。
 
普段僕は論理的でない人や科学的でない人を馬鹿にしていますが、本当はそんな資格はありません。なぜならこの時の僕は「童貞のまま死ぬ」というリスクを過大に見積もり、「タイの風俗で童貞を捨てること」のハードルをとてつもなく下げていたからです。
 
 
 
 
この死への恐怖と隣の美女の誘惑、その絶妙な合わせ技で、気づけば僕は見知らぬホテルの一室にいました。部屋の照明は薄暗く、広さはベッドがようやく一台置けるかどうかといったところです。
 
 
 
さてわけも分からず導かれるがままにコトが始まりました。正直なところ詳細はよく覚えていません。しかしお姉さんが気を使ってかカタコトの日本語で
 
「キモチイイデス」
 
と言ってくれたことだけは覚えています。そしてその瞬間、ものっそい後悔が押し寄せてきたことも。
 
あぁやってしまった。僕はあれほど固く守り抜くと言っていた童貞をあろうことか見知らぬ国の見知らぬお姉さんにカタコトの日本語とともに捧げてしまったのです。しかもお金を払って。このことが友達にバレたらなんと言われるだろうか。
 
さて全行程を15分程の神速で終了した僕は、しばらくホテルの前でもわっとした空気を浴びながら呆然自失としていました。そしてなんとか気を取り直した後、友達に連絡を取りました。
 
 
 
 
「お前、何処言ってたんだよ。もしかしてあのお姉さんで童貞捨ててきた?笑」
 
 
迎えに来てくれた童貞仲間の鈴木君の言葉には「まさかそんなわけないよな」というニュアンスがこもっていました。
 
 
「そ、そんなわけないだろ、丁重にお断りしてきたよ。」
 
 
彼の期待に沿うように僕は嘘をつきました。「はじめては絶対に好きな人」という信仰を破った今、それがバレればいじめられます。僕は必至の思いで愛想笑いを浮かべました。しかしそんな薄気味悪い僕の笑顔も次の鈴木くんの一言でいっきに消え失せます。
 
 
 
 
 
 
 
 
「だよね。あの人めっちゃ喉仏あったしね笑」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

f:id:tsukasa-h:20170420135803j:plain

 
 
ヤッてる最中に気づくだろ、というのは今だから言えることであって、当時の僕は初体験の相手がニューハーフだろうと、あそこにあるアレが人工的なものであろうと、知る術はありませんでした。
 
 
 
 
 
だって童貞だったから!
 
 
 
 
 
 
恋愛工学は確かに禁断の果実かもしれません。しかし僕がアダムとイブと異なるのははじめから楽園を追放された身だったということです。禁断の果実を口にすることでしかこの残酷な世界を生き残る術はなかったのです。
 
この記事はなんらかの理由で既に楽園を追われている人たちに捧げます。あーめん。
 
 
 
画像引用:
鳥山明:ドラゴンボール、福本伸行:賭博黙示録カイジ、久保帯人:BLEACH、おやつカンパニー

【書評】すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論-堀江貴文著

f:id:tsukasa-h:20170412124746j:plain

 

僕が勝手にステルスリバタリアンだと思っている堀江さん@takapon_jpの新書についての書評を書きました。タイトルに教育とありますが僕は「自由」と「幸福」のための哲学書だと感じました。

 

ホリエモンというステルスリバタリアン

 

リバタリアンの多くは、リバタリアンを自称しないため普段は目に見えない。何故自称しないのかというと、信じる思想が例え「自由」だったとしても絶対的な価値観を持つことに対して抵抗感というか気持ち悪さを感じているためではないかと思う。言い換えると「自由」を好むがゆえに自分自身を特定のカテゴリーの中に入れたくないのだ。まあ、ただ単に「カテゴリー分け」に興味がないだけかもしれないが。

 

さて僕の私淑四天王の一角であるホリエモンこと堀江貴文氏もリバタリアンを自称しないステルスリバタリアンだ。ただ主張は一貫して「自由」を重んじており、本書についても存分にリバタリアニズムを感じさせるものだったので紹介したい。

 

学校教育はまったく必要ない

 

本書のテーマは教育だ。もっと言えば教育と紐付いた「国民国家というフィクション」に対して疑問を投げかける内容となっている。国家の否定はまさしくリバタリアニズムの本領だ。

 

学校教育の起源を辿れば18世紀のイギリス産業革命にまで遡る。当時のイギリスで必要とされていたものと言えば「高品質な」工場労働者だが、そのために学校教育というシステムは最適だった。決まった時間に決まった学習を行い、教師に対して従順な人格を作り出す。もちろん基礎的な学力や最低限の社会性といったものも学校は提供した。またもう一つの死活問題である軍人の確保にも教育システムは効果的だった。命をかけて敵と戦うためには「国家のために」というフィクションが必要不可欠であり、学校は洗脳機関としても優れていた。

 

さて当然であるがリバタリアンであるホリエモンは教育の強制を良しとしない。というかまったく必要ないとまで言い切っている。おそらく原風景には自らの早熟だった子供時代があり、そこで「自由」が侵害されたという記憶があるのだろう。

 

もちろん本書に書いてあることは「学校が嫌いだからなくしてしまえ」という単純な主張ではない。今後の社会の流れを鑑みても学校教育は不要だとホリエモンは説く。社会の流れというのはインターネットの登場であり、AIやロボットの普及だ。インターネットは国境を溶かし、国民国家というフィクションをも破壊し始めている。また早晩普及するであろうAIやロボットは学校教育の目的そのものであった均質な労働者を真っ向から代替するテクノロジーとなり得る。

 

もっとも今でさえ学校教育の問題点は山ほど挙げられる。様々な習熟段階にある子どもたちに画一的な教育を押し付けて良いのか、TOEICを500点も取れない英語教師に英語教育を任せて良いのか、オンラインで優れた予備校講師の授業を配信したほうが効果的ではないのか、そもそも登校する必要はあるのかetc…。

 

個人的には学校教育をまったく必要ないと言えるほど子供の可能性を信じ切れているわけではないが、そう断ずるホリエモンの主張も理解できる。尖った個性が求められる近未来において、個性を削るような画一的な学校教育はメリットよりもデメリットの方が大きいのかもしれない。

 

G人材とL人材、そしてN人材

 

さて、ここまでが全5章で構成される本書の第1章で、第2章はいわゆる人材論、というか生き方の話になる。すなわちG人材、L人材、そしてN人材だ。僕はホリエモンの著書、文章は大体チェックしているつもりだが、この概念は比較的最近語られ始めたように思う。僕が初めて見たのはNewsPicksの有料記事だったので、この部分だけでも本書を読む価値は十分にあるだろう。

 

ホリエモンは当然リバタリアンでもあるGlobal人材(G人材)だが、リバタリアン的な面白さを感じるのはLocal人材(L人材)に対する彼のスタンスだ。代表的なL人材と言えばマイルドヤンキーが挙げられるが、ホリエモンは彼らの生き方を否定することはしない。そこに幸せを感じるのならば、そう生きるのも彼らの「自由」というわけだ。またG人材とL人材はそもそも接点が少ないので、リバタリアンが最も忌避する「自由」の侵害もほぼ発生しない。

 

ホリエモンが最も問題視しているのは国家の存在を前提として成り立つNation人材(N人材)だ。彼はN人材の最大の問題点を「仮想敵」を作り出すことだと指摘するが、首がもげるほど同意したい。

 

国家というフィクションの背景にあるのは共同体の「正義」だ。そして「正義」という価値感は絶対的なものとなりうる。そのことは以前の記事で書いた通りだ。

 

では凝り固まった「正義」を振りかざすのはどのような人々だろうか。街頭でヘイトスピーチを繰り返す右翼(コミュニタリアン)はあてはまるかもしれない。でもそれだけではない。「平等」を掲げる左翼(リベラル)もまた価値感を共有しない人々に対して凶悪となる。それは沖縄の基地問題や原発問題、SEALDsの活動を見てもよく分かる。寛容を叫ぶ人ほど寛容ではないのだ。その意味で僕たちの「自由」は常に「正義」や「平等」によって脅かされている。そしてこれらを叫ぶのは決まって国家に囚われているN人材なのだ。

 

さて「自由」や「平等」、「正義」といった価値感は、それぞれリバタリアン、リベラル、コミュニタリアンの背景にある思想だ。これらはその言葉の美しさ故に目的そのものだと勘違いされやすいのだが、実は「幸福」を掴むための一手段に過ぎない。結局生きる上で最も大切なことは、いかに自分が幸せになるかということなのだ。従って本書の第3章もリバタリアン的な「幸福」がどのようなものになるのかを解き明かす内容となっている。キーワードは没頭する力であり、僕が以前書いた記事にあるような快楽マネタイズだ。

 

ここから先の内容については本書に譲りたいと思うが、ひとつ注意しておきたいことは、この本における教育は表面的なテーマに過ぎないということだ。僕はホリエモンが本当に訴えたいのは「自由」な生き方であり、「幸福」のつかみ方だと思っている。その意味で本書は、安直な教育論ではなく一種の哲学書だと言える。なので人生に迷いが生じている人はぜひ手に取って見てほしい。そこにはきっと「自由」を、そして「幸福」を掴むためのヒントがあるはずだ。

 

そう言えばG人材はリバタリアン、N人材を左右で分かれるリベラルやコミュニタリアンだとするとL人材にあてはまる思想がない。あえて言うならば「仲間」に至上価値を置くローカリアンといったところだろうか。本書を最後まで読んで、それでもなおかつリバタリアン的な生き方に違和感を覚えたならば残された選択肢はローカリアンのみだ。早々にネットを閉じ、仲間たちとサッカーでもしよう。ネットの世界にローカリアンの幸せはない。

amzn.to

恋愛工学の倫理的課題と自由

f:id:tsukasa-h:20170406221134j:plain
 
恋愛工学生を自称する僕が傲慢にも恋愛工学の倫理的側面について書きました。鍵となるのはやはり「自由」です。 

思想別に見る恋愛工学批判

恋愛工学はたびたび謂れのない中傷を受けてきた、僕たちはその度にほっといてくれと受け流してきたのだが、今回はあえて彼らの批判に乗っかる形で恋愛工学につきまとう倫理的な課題について解き明かしてみたいと思う。
 
前回の記事では政治思想として三つの思想を紹介した。すなわち『平等』を掲げるリベラル、『共同体の正義』を信奉するコミュニタリアン、そして『自由』に至上価値を置くリバタリアンだ。今回もこのフレームを使って考察したい。
 
初めに恋愛工学生は『自由』に最も価値を認めるリバタリアンであるという前提を置きたい。詳しくは後ほど説明するが、とりあえずその前提に立って他の二つの思想からの批判を見てみよう。
 
まずはリベラルからの批判だ。平等を目指すリベラルは恋愛工学を批判する際に男女平等という錦の御旗を掲げる。男と女は元々平等であるのだから、女を分析対象としてモノのように扱うことは許さないというのだ。ディスる技術もこの文脈において否定される。
 
この点については正直反論するのもバカらしいのだが、やはり繰り返し言っておきたい。恋愛工学はあくまで進化生物学を中心とした科学をベースに恋愛を紐解いているだけであってそれ自体は善悪を内包せず、あくまで価値中立的だ。従って表面的な部分だけを捉えて女性をモノ扱いしていると言われても、まったくもってナンセンスだ。僕にはリベラルからの批判は「一般的に男性は女性よりも優れた腕力を持っている」というセンテンスに対して「女性差別だ」と叫んでいるように聞こえる。そしてこの種の人々にとって恋愛は永遠に謎めいた神秘的なモノでなくてはならず、科学による客観的な分析は認められない。恋愛教の敬虔な巫女である彼女らは崇め奉る神聖な祭壇が研究者の手によって暴かれることを許さないのだ。
 
また男女平等を掲げる人たちにとっては、男女関係も一対一という対等な関係でなくてはならず、一夫多妻を連想させるスタティスティカルアービトラージ(一度に複数の女性にアプローチすること)やモテスパイラル(モテている男性がさらにモテるという現象)といった恋愛工学の基礎理論に対しても嫌悪感を抱く。おそらくアルファな男性が複数の女性を囲う姿が、サル山のボスがたくさんのメスを従えている姿と重なり、そこに一種の主従関係を想起させるためだろう。
 
次に共同体の正義、つまり伝統的な価値観を重んじるコミュニタリアンからの批判だ。彼らの批判は分かりやすい。彼らにとって一夫一妻は伝統であり信じるべき共同体の正義なのだ。そこに対する疑問は連綿と続いてきた社会のシステムを根幹から揺るがすことを意味する。それゆえに彼らもリベラルと同様、スタティスティカルアービトラージのような複数恋愛を肯定する戦略に否定的な立場を取ることになる。
 
もっともこのグループは男性が多く理論の有効性が確認できれば、わりと簡単に恋愛工学生へと転身したりもする。そうしないのはよほど『高潔』な人物であるか、理論を有効活用できない非モテだろう。その意味でこの『共同体の正義』の裏にあるのは非モテの既得権益なのかもしれない。 

恋愛工学の背景にある思想はリバタリアニズム

さて両グループからの批判を見ると、やはり鍵となってくるのは同時に複数の女性にアプローチをかけるというスタティスティカルアービトラージだ。これは男女平等、また伝統的な価値観という観点からも問題視される。
 
無論僕も恋愛工学と出会う前は同時に複数の女性にアプローチするなんてとんでもないと思っていた。伝統的な価値感を信じ、少年ジャンプ的な恋愛観に囚われていたのだ。
 
さて実は恋愛工学がリバタリアニズムに属するというのはこのスタティスティカルアービトラージという戦略から強く主張することができる。つまり複数の女性にアプローチするのも男性の『自由』であるし、そういった男性を好きになるのも女性の『自由』というわけだ。そこに他者が介入する余地はない。誰にも迷惑をかけていない行為なのだから、あくまでそれらの行いは個人の裁量に任されるべきであり『平等』も『正義』もお呼びではないのだ。 

スタティスティカルアービトラージの倫理的課題

ただここで記事を終えてしまっては凡百のブログに埋もれてしまうので、もう一歩だけ踏み込んで、恋愛工学の倫理的な側面について語ってみたい。
 
スタティスティカルアービトラージにつきまとう倫理的な課題、それは情報の非対称性だ。情報の非対称性とは経済学の用語で、例えば株式取引におけるインサイダー取引が代表的なものとして挙げられる。一部の市場関係者が事前にマーケットに関する情報を入手し、不当に株取引で利益を得ることは『自由』を重んじる経済学の世界においても依然として問題視される。この場合プレーヤー間に情報の格差があることで不利益を被る人が存在し、さらにそれは市場では解決できない問題なので、法律による介入を正当化する。
 
情報の非対称性についてはリバタリアニズムの深遠なテーマともなるので、また改めて書きたいと思うが、とにかく恋愛工学のスタティスティカルアービトラージは女性が男性の交際ステータスを入手できないという点において、情報の非対称性を利用したものだと言える。(ちなみに過激派リバタリアンはインサイダー取引を肯定したりもするし、情報の非対称性を問題視しないスタンスを取ったりもする。)
 
それではこのスタティスティカルアービトラージにあるささくれを恋愛工学はどのように捉えるべきなのだろうか。
 
それは、ある意味当然とも言えるのだけれど、絶対に相手の女性にバレてはいけないということだ。藤沢所長のバックグラウンドである物理学の世界から言葉を借りれば、僕たちの倫理的課題はシュレディンガーの猫に託されていると言える。シュレディンガーの猫の概念はとても難解なので詳述は避けるが、そのエッセンスを一言で説明すると『事実は観測者が観測した時に初めて確定する』というものだ。
 
つまり浮気や不倫は女性が観測するまで決して確定することのない現象であって、例えあなたが疑わしい行動をとったとしても女性の中では『浮気したあなた』と『浮気していないあなた』が同時に存在するだけなのだ。開き直りのように聞こえるかもしれない。しかし僕の個人的な経験から言わせてもらえば、多くの女性は「バレないところでは何をしてもいいから、絶対に隠し通せ」という考えを持っているようにも見える。これは男性の悲しき生態を理解した上で、女性が見せる最大限の譲歩なのだろう。
 
もちろん他の女性の存在をほのめかしグリップを強めることはモテスパイラル理論的にも肯定されるし、また他の女性の存在を明かしてもついてきてくれる心の美しい女性に対してはこうした倫理的な問題は発生しない。
 
唯一倫理的な問題が発生するとしたら、それはあなたの浮気がバレ、かつその女性があなたの元を去って行った時だけだ。この時ばかりは自分の魅力の無さを呪い、非倫理的な行動を悔い改めて欲しい。自由を信奉する僕がこんなことを言うのは非常に心苦しく傲慢だとは思うのだけれど、恋愛工学にわずかながら刺さった認知的不協和という棘を取り除く一助になればと願っている。 

恋愛工学が本当に目指すものは真のハイスペアルファ戦略

ここからは余談なのだけれど、進化生物学的にも一夫多妻を肯定する恋愛工学が本当に目指す場所は、おそらく真のハイスペアルファ戦略だ。つまり他の女性との関係を全て開示した上で新規の女性にアプローチをかけるというものだ。しかしながら世の男性は複数の女性を同時に囲えるほど裕福ではないし、初めから複数恋愛を開示できる程のモテでもない。従ってどうしても最初は情報の非対称性を利用したアプローチを取ることになる。
 
男性が真のハイスペアルファ戦略を取れなくなった背景には社会の発展がある。石器時代においては肉体的な完成こそがアルファとなるための重要な要因であり、その意味では性的に成熟する時期と社会的な地位を獲得する時期は概ね一致していた。しかし現代においては富を得ることがアルファの条件となってしまったため、性的な成熟と社会的地位を獲得する時期がズレてきてしまっている。従って本来たくさんのメスを惹きつけるはずの若いオスが、現代社会においては相対的に非モテ貧乏となってしまったのだ。このことは若い男性が真のハイスペアルファ戦略を取りづらくなってしまったことと無関係ではないように思う。 

恋愛工学と『正義』

そしてこれもまったく本筋とは関係のない話なんだけど、恋愛工学生が『正義』を振りかざし他人を言葉の棍棒でぶん殴ることだけはやめて欲しいと思っている。
 
恋愛工学生が『正義』という価値観に寄り添えばはっきり言ってスタティスティカルアービトラージとのダブルスタンダードは免れ得ない。僕達が真に寄り添うべきなのは主観的な『正義』などではなく万人に開かれた『自由』であり、寛容であるべきなのだ。
 

政治を五分で理解するための教養

f:id:tsukasa-h:20170328060740j:plain

要約:政治をざっくり理解する上ではリベラルとコミュニタリアンとリバタリアンが持つ価値観を理解していれば十分で、その中でもリバタリアンって最高じゃね?って話です。

裏テーマは恋愛工学批判に対する皮肉と自己紹介です。 

1.はじめに

政治について語るということは、そんなに難しいことじゃない。たまに政治について語る教養がないと嘆く人がいるけれど、結局は「世の中に3種類の人間がいる」ということだけを頭にいれておけば大抵の政治は語ることができる。今日はその3つ、リベラル、コミュニタリアン、リバタリアンについて紹介したい。

この3つはどういった価値観に一番の重きを置くかということで主張が異なる。ざっくり言うと、リベラルは「平等」、コミュニタリアンは「共同体の正義」、リバタリアンは「自由」だ。ちなみに僕は自分のことをリバタリアンだと思っているのでこの記事はリバタリアン寄りの内容となることをご承知置きいただきたい。

政党で考えるとリベラルは社民、共産、民進、コミュニタリアンは自民、リバタリアンは維新となる。公明党は「宗教」というまったく異次元の価値観があるので、ここでは触れない。もちろん完全に割り切れるものではなくあくまで「傾向がある」といった意味で考えて欲しい。

2.リベラル

さて「平等」を至上価値とするリベラルには香ばしいというかちょっと胡散臭い政党が揃っている。それもそのはずで現代社会の基本システムである資本主義と相容れない考え方が「平等」だからだ。

勘違いして欲しくないのは、僕だって「平等」は素晴らしいと思っている。だけどそれはあくまでも身分や出自、人種や性別に関係なく等しくチャレンジする機会が与えられているという「機会の平等」に限った話で、様々な過程を無視して「結果の平等」を求める社会はグロテスクなディストピアでしかない。

この集団の代表的な政策は「大企業や金持ちに重税を課し、弱者に分配する」といったものだが、それが上手く行かないのはソ連が証明してくれた。

また彼らは「平等」を国家を超えた枠組みで適用しようとするので、時に自国の利益と相反する政策を提言しているようにも見える。例えば慰安婦問題なんかを大きく取り上げるのもこの集団だし、ルーピーとアメリカに揶揄されるほど国政に混乱をもたらした鳩山元首相もここに属する。彼は「平等」の精神を世界中で振りまいたために日本国民からは売国奴として罵られることとなった。

またこれは余談だけど、彼は宇宙人という自らに付けられたあだ名を気に入っていたフシがある。なぜなら

『宇宙人の自分だからこそ自国の利益に囚われず地球規模の問題に対処できる。』

という考えがあったからだ。それはそれで立派な志かもしれないが、一国の首相には恐ろしく不向きだった。

3.コミュニタリアン

次に「共同体の正義」を重んじるコミュニタリアン、いわゆる保守と呼ばれる人たちを見てみよう。「共同体の正義」というのは一見わかりづらいが、つまりは長い歴史の中で育まれてきた伝統を大事にしようとする一団だ。これは政党で言えば最もポピュラーな自民党ということになり、いわゆる「普通の人」とも言える。「普通の人」は伝統を重んじ、仲間を大切にする。最近の言葉で言えば「ワンピース的価値観」や「マイルドヤンキー」なんてものがあてはまるかもしれない。これだってもちろん「平等」と同様に素晴らしい考え方だが、やっぱり違和感を感じないだろうか。というのも彼らの目には仲間以外の人々が(あまり)写っていないからだ。

「共同体の正義」を突き詰めれば、ともすれば偏狭なナショナリズムを肯定してしまう可能性がある。かつてのファシズムがそうだったように、あるいは今のアメリカを見ても分かるように徹底したコミュニタリアンは他民族を排斥するムーブメントを醸成しかねない。また「国家のために」という価値観は戦争中に特攻隊という悲劇を生んだ。

4.リベラルとコミュニタリアンに関して特に問題だと思うこと

最後に「自由」を至上価値とするリバタリアンを紹介したいと思うが、その前にリベラルとコミュニタリアンについて僕が最も問題だと感じていることを述べておきたい。それはこれらのイデオロギーが「妄信的で絶対的なもの」となりうる点だ。

「平等」や「正義」は確かに素晴らしい価値観だ。しかしそれ故に絶対的なものとなりやすい。そして「素晴らしい」価値観を持つ人々は他人にもそれを強制しがちだ。ネット上で攻撃的なのもリベラル(exフェミニスト)やコミュニタリアン(exネトウヨ)ではないだろうか。「平等」を叫ぶ人は周りの人も「平等」でなければならないと思っているし、「共同体の正義」を信奉する人はやはり周りにもその「正義」を押し付けようとする。寛容を叫ぶ人ほど寛容ではないという例のアレだ。心当たりはないだろうか。

一億歩譲って彼らが純粋な気持ちから「平等」や「正義」を押し付けようとすることは肯定はしないが理解はできる。でも時に彼らは「嫉妬」や「憎悪」という個人的な負の感情を「平等」や「正義」という仮面で取り繕いながら言葉の棍棒でぶん殴ってくる。僕はそういう人たちを本当に醜いと思う。

「おいおいちょっと待て、じゃあリバタリアンはどうなの?」

そんな反論もあるだろう。だが考えてみて欲しい。「自由」という価値観が絶対的なものだとして、それを人に押し付けることは果たして可能だろうか?リバタリアンからすればリベラルだろうがコミュニタリアンだろうが、彼ら自身のコミュニティ内で、それを主張するのは「自由」だと思っているし干渉する気もない。唯一言える批判的な言葉は「もう好きにすればいいじゃん」ということぐらいで、そこに強制性はない。リバタリアンが唯一声高に「自由」を叫ぶのは自らの「自由」が侵害された時のみだ。だから他のイデオロギーに対して攻撃的な防御に出ることはあっても率先して噛み付くことはない。こう考えると人に押し付けることのできない価値観である「自由」ってすごい。

5.リバタリアン

さてほとんどリバタリアンについても解説してしまったが、最後にもう一度おさらいをしておこう。リバタリアンを政党に置き換えると、強いて言えばだが維新の会ということになる。何故かと言うと、維新の会はほとんど唯一と言っていいほど小さな政府を志向しているからだ。

小さな政府を志向するということは政府の役割を限定し、個人への干渉をできる限り小さくする、つまりは「自由」を最大限尊重するということに他ならない。具体的な政策としては種々の規制緩和や減税などが挙げられる。リバタリアンは国家に対しても「ほっといてくれ」というスタンスだし、重税を課されることは自らの「自由」を奪われることだと捉える。ドストエフスキーが言うように貨幣とは鋳造された「自由」であるからだ。

とは言えこれだけではフェアではないのでリバタリアンの欠点についても述べておこう。

「自由」を突き詰めた社会はホッブズが指摘したように「万人の万人に対する闘争状態」つまり無政府状態に近いところに至る。それはやはり弱肉強食の世界であり、力がなくお金を稼ぐことのできない弱者にとっては生き辛い世界だ。

ここで弱者救済に対するリバタリアン的な回答はベーシック・インカムということになるのだけれど、これに言及するためにはもう一本記事が必要なので割愛する。

念のためもう一度言っておくけれど、ここで言ったのはあくまでざっくりとした分類で、自民党や民進党の中にもリバタリアン寄りな人たちは存在するし、極端なリベラルやコミュニタリアン、そしてリバタリアンというのも中々いないだろう。かく言う僕もコミュニタリアン寄りのリバタリアンだ。

6.最後に

さてつらつらと書いてきたわけだけど、ここまで理解できればおそらくはそんじょそこらの政治通よりもよっぽど政治について語ることができるようになっているはずだ。少なくともリバタリアニズムという思想の上に立脚すれば議論で言い負かされることはない。決め台詞は「好きにすればいいじゃん、でもこっちに迷惑をかけるなよ」だ。覚えておこう。

しかしこう考えてみると「自由」「平等」「友愛」を同時に掲げるフランスの国旗って、楚の国の商人も裸足で逃げ出すレベルの矛盾を抱えていると思うよ。

参考図書:

マイケル・サンデル著:これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

橘玲著:(日本人)

幸せについて本気出して考えてみた

f:id:tsukasa-h:20170324032239j:plain

3月20日が世界幸福デーだったらしいので幸福に関する記事を書いてみました。恋愛やビジネスはマニュアル化が進んでいますが、幸福に対しても同様のアプローチができるのではないかと考えています。

要約:

「幸福=快楽×やりがい」だよ。幸福の中で非生産的なものが快楽で、生産的なものがやりがいだけど、今の時代は快楽を突き詰めてマネタイズすると結局はやりがいも得られて幸せになれるよ。

僕たちが生きている進化生物学的な理由

僕は生きている意味ってなんだろう、と子供の頃からずっと疑問を抱いてきた。ミスチルは歌う

「残念ですが、僕が生きていることに意味はない」

いやいやそんなわけはない。何かしらの意味を持って僕たちはこの世に生をうけたはずだ。宗教を信じれるほどピュアじゃないけれどもミスチルのように割り切れるほど僕の心は成熟していなかった。

でも考えれば考えるほど生きていることに意味はないように思えてくる。大金持ちになったり、政治家として歴史に名を残したり、みんなから尊敬されるスポーツ選手になったりしても100年後の未来に僕たちは存在しない。もちろん歴史の教科書に名前を残すことは可能かもしれない。でもだからと言ってなんだというのだろう。天国から自分の業績を振り返ってニヤニヤできるわけでもない。人は死んでしまったら無なのだ。

大学時代に進化生物学に出会って、もうひとつの答えにたどり着いた。生命は原始のスープと呼ばれる古代の海で誕生し「たまたま」環境に適応(生存)し、自らを複製する(繁殖)能力を持った個体だけが生き残ってきた。

だとすれば「生存」と「繁殖」が僕たちの生きている意味にはならないだろうか。究極的に人生に意味はないという考えは今も変わらない。でもそれではあまりにも悲しすぎるので、その一歩手前に目標を持つことにした。

「生存」と「繁殖」をそれぞれ言い換えてみると「衣食住の充実」と「メスの獲得」、あるいは「金」と「女」という身も蓋もない結論に達する。

やはり多くの幸せはこの二つと関係があるように思う。ただ違和感もある。おそらくそれは幸福の「快楽」という側面にしかスポットライトが当たっていないからだ。

「快楽」は瞬間的な幸福感のことでラーメンを食べて美味しいとかセックスをして気持ち良いとかある意味、非生産的な幸福だ。そして究極的にはドラッグで脳内を麻薬漬けにしてしまえば得られるものでもある。

幸福 = 快楽 × やりがい

それでは「快楽」以外の幸福とは一体なんなのか。「幸福な選択、不幸な選択」の著者ポール・ドーランによれば、それは「やりがい」であるとされる。

「やりがい」が「快楽」と決定的に違うのは、生産的な活動により生じる幸福だということだ。ゲーム実況を行っているYoutuberを思い浮かべれば分かりやすい。ゲームに熱中するだけなら「快楽」だが、それをYoutubeにアップし視聴者から人気を集める行為は「やりがい」となる。従って「やりがい」は承認欲求とも密接に関係しているし、人間関係の充足にも寄与する。

おそらくこの「やりがい」に対して感じる喜びも元々は「快楽」を得るために必要な遺伝子プログラムだったのだろう。なぜならば「やりがい」の先には「自身の成長」があり、「自身の成長」は「衣食住の確保」や「メスの獲得」に有利となるからだ。そして長い年月を経て、僕たちの遺伝子は「やりがい」そのものに対しても幸福感を得られるようにプログラミングされた。それが生存戦略上で極めて有効だったからだ。

幸福とは相対的なもの

もう一つ幸福を読み解く上でのキーワードとして「相対的」ということを提示したい。下の記事は、少し前に話題になったSNSの利用率と幸福度の関係を解き明かしたものだが、幸福が相対的なものであるということを端的に示している。

参考リンク:

フェイスブックは「人生の幸福度を下げる」 米研究結果 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)

「SNS上で友人らの投稿を目にすることで、自分以外の人たちは幸せで充実した人生を送っているという歪んだ認識と、うらやむ気持ちが生じる」と指摘している。SNS上で傍観者でいると、自分は時間を無駄にしていると感じるようになる。その結果、うつ病になる。

この記事ではネットを介して自分より幸せそうな人たち(それが例えフィクションだとしても)を目にすることで、劣等感が喚起され幸福度が下がるということが指摘されている。幸せな生活を送りたいのであればネット、少なくともSNSは遠ざけた方がいい。

また国民総幸福量(GNP)という概念を提唱したブータンの前国王であるジグミ・シンゲ・ワンチュク国王もインターネットの普及に懸念を抱いていたことを思い出す。おそらくワンチュク国王もネットと幸福度の相関関係を見抜いていた一人だったのだろう。

※これは昔僕がテレビでチラッと見ただけなのでソースはなし。

そもそも「やりがい」の先には自身の成長と競争における勝利がある。だとすれば優越感や劣等感が幸福度と密接に結びついていたとしても何ら不思議ではないはずだ。 

結局、僕たちはどうすれば幸せになれるのか?

さて幸福を読み解く上で「快楽」「やりがい」そして「相対的」というポイントを紹介してきた。これを踏まえた上で僕たちが目指すべき幸福のあり方とは一体どのようなものだろうか。

まず「相対的」という言葉から考えてみたい。よく言われることだが、マイルドヤンキーが幸せなのは小さな世界で生活が完結しているためだ。故に他者と自分を必要以上に比べず、劣等感を感じる機会も少ない。贅沢ではないけれどささやかな幸せと、仲間内で得られる矜持。そこにマイルドヤンキー的な幸福の本質がある。彼らは広い世界を知らないからこそ楽園で暮らすことを許されたアダムとイブであり、大海を知らないがために井の中で幸せを享受する蛙なのだ。

さてこんなブログをここまで読んでくれた人たちは間違っても狭い世界に生きるマイルドヤンキーではないだろう。本当の勝ち組か、もしくは広い世界を知ってしまったがために素朴な幸せでは満足できなくなった欲求不満な人たちだ。

であるならば、幸せになるために残された選択肢は何か。僕は二つのルートが存在すると思っている。ひとつは伝統的な価値観に則り、努力からやりがいへと進む道、そしてもう一つが快楽からやりがいへと進む道だ。

f:id:tsukasa-h:20170324222409j:plain

もちろん僕がお勧めしたいのは快楽から進む道である。というのも意志力がおちょこの裏ぐらいしかない僕にとって努力し続けることはラクダが針の穴を通るより難しいからだ。もちろん意志力の強い人は努力から進む道を選んでもいいだろう。サラリーマンとして頑張る、資格を取得することなんかはこの道になるかもしれない。

快楽ルートから進む時に大事なことは、その道を突き詰めることだ。ホリエモンはこのことを「没頭する力」と呼んでいるがまさにその通りだと思う。反対に没頭できなければ周囲の雑音から自らの境遇を相対化し、幸福度は著しく減少する。

幸いインターネットのおかげで僕たちは未だかつてないほど「快楽」をマネタイズしやすい時代に生きている先述したゲームの実況者はもちろん、ナンパが好きならナンパ塾を開いてもいいし、漫画や本が好きなら書評を書いてもいい。いっそのこと漫画家や小説家を目指してもいいかもしれない。今は出版社を通さずとも、作品をネットにアップするだけでマネタイズが可能な時代なのだ。もちろんビジネス自体に快楽を感じるなら、それは素晴らしい才能なので大事にして欲しい。

重要なのは「快楽」を非生産的な活動として終わらせずに生産的な「やりがい」にまで昇華させるということ、そして決して自分を相対化し過ぎないことだ。程良い劣等感は適度なモチベーションを生み出すが、過ぎると快楽をマネタイズするにあたっての挫折要因となる。

インターネットは僕たちに劣等感を与え不幸をもたらしたかもしれない。しかしその代償に僕たちは「快楽」を「やりがい」に昇華させる武器を手に入れた。しかもこの「快楽」と「やりがい」は幸福の定義そのものでもある。そう考えると僕たちは本当に幸せな時代を生きている、そうは思わないだろうか。

 

参考図書: